Anthropocentric

すてきな死後を、ぼくのいない世界で。
あのじゅんは死なないつもりらしい。死ぬまでに人間の意識というものを解析して、人工的に再現できるようにする。そして自分の意識を転写すれば、肉体を持ったほうは死ぬだろうけれど、もう一人は半永久の自己を持ち続けられる、という算段だろう。問題点があるとすれば、今のところ夢物語もいいところなのと、「自分」が必ずしもエミュレートされたほうの「自分」になれるとは限らない(肉体を持ったほうはやはり死ぬ)ことだろうけど、その辺の難しい話はきりがないし、無視してしまおう。そういえば、どこでもドアは実は物質を解析、転送、再構成しているだけだから、通るたびに「自分」は死んでいるとも言える、とかいう話もあるよね。でもあれは人工ワームホールではないのかな、とも思うのだけど。

ところで、僕は普通に死ぬつもりだ。今のところはね。死ぬことによってしか人間は完結できない、と考えているから。死ぬことが、僕という一人の人間を「固定する」というか、なんというか、まったくもってうまく言語化できないのだけれど(そして論理的でもないのだけど)、とにかく、死ぬことはとても重要であることのような気がしているのだ。たとえば、アインシュタインがまだ生きていたら、どうだろう、とかね。

僕は、本を書きたい。読んだ人すべての中に、僕という人間が存在できるような。このサイトだって、僕を知らない人からすれば「Jyakkyそのもの」であって、そして、これを読んだ誰かのなかで、それはずっと生き続ける。このサイトが存在する限り(もちろん、印刷して紙媒体になっても同じだ)、僕はそこに生きていられるのだ。

だから、目指すのだ。歴史のどこかにその名を残し、僕が遺してきた情報が永遠になる価値を認められることを。ここに日記を書くのはその手段のひとつであり、本を書くこともそうだ。読むひとすべての中で、僕は永遠になる。そして、その永遠は、僕の死によって確定するのだ。そんな気が、すこしだけしている。